沖縄ジェード塾

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昨日は沖縄ジェード塾、そして、今日はビジネスチャンスミーティングと連チャンでミーティングしました。
さて、今日のミーティングの前に、特定非営利活動法人「日本成人病予防協会」の健康管理士の説明会が、島正子さん(IPC)の主催で開催されました。
沖縄のIPCで島さんと新里さんが資格を取られているということで、私も興味をもって参加しましたが、90分の説明会というより、健康セミナーという感じでとにかく講師の方のお話しが素晴らしかったです。
非常に勉強になりました。
最後はおそらく、会場にいる全員が涙するほどの感動的なお話しだったのです。
私は早速、東京、大阪で説明会をやってもらうようにお願いする予定です。
なぜなら、この資格を取ることによりビジネスに役に立つと思いますし、現にお話の中で、ある有名健康食品企業のメンバーが4000名ほど資格を取られ、その取られたグループの組織が著しく伸びたそうです。
そういう実績を聞けば活用しない手はないです。
とにかく、私がとやかく言わなくてもこの講師の方のお話を聞けば納得することでしょう。
今日会場に来ていた80%以上の方が健康管理士の申し込みをしたのです。
ビジネス関係なくてもご自身と家族のためにも役立つ知識が得られますので、来年関東、関西で企画する予定ですから聞きに来てみてください。
今日学んだことをここに書きまくりたいぐらい今日は久々にメモしまくりでしたが、実際に生を聞いていただきたいので我慢します・・・
ノニのプレゼンには間違いなく役に立つでしょう。
本当に大感動の説明会でした!!!
さて、昨日の沖縄のジェード塾は40名の参加でした。
私が関東に戻る前に私が沖縄でやりたい一番の目標が達成できました。
それが実はジェード塾だったのです。
実は私は昨年沖縄に越してきたときに、ジェード塾をやりたいと心の中では思っていました。
でも、正直やる雰囲気ではなかったですし、やるって募集をかけても人数はおそらく集まらなかったと思います。
ですから、あせらないで時期が来れば・・・と思っていました。
そうして、今年の沖縄は昨年とは比べものにならないぐらい変わってきたのです。
ですから、開催できると私は思いました。
ジェード塾が開催できるためにはサイドライン同士のつながりが必要です。
自分以外のラインの方に関わっていくわけですから、その協力精神がないと参加できません。
ですから、今の沖縄は全体で協力し合ってイベントが企画できるのでジェード塾も立ち上がったのです。
企画という意味では1月の斎藤はるみBPから始まって、9月に小滝クラブマルケサス(CM)、今月12月は浜田CMをお招きしたのです。
どのゲストスピーカーも沖縄の雰囲気の良さ、結束の固さを痛感されたと思います。
来年はさらに多くのゲストを県外からお呼びする計画だと思います。
ぜひとも沖縄のメンバーの雰囲気、温かさ、熱心さを肌で感じとっていただきたいです。
私は来年は今年以上に全国に飛んでいくと思いますが、どの地域に行っても沖縄に行って勉強されることをお勧めしていこうと思っています。
この雰囲気を全国に広げていきたいと思っています。
昨日のジェード塾のスタートで、来年は更なる飛躍が期待できる沖縄です。
ぜひとも私のあとを引き継いで4か月サイクルでジェード塾を続けていっていただきたいですね。
安心していただきたいのは、ジェード塾を活用したチームは間違いなく組織が伸びているという実績が関東で実績済みだということです。
ですから、あとはジェード塾を継続していけるリーダーの育成です。
沖縄のリーダーの方々は私のやり方を引き継いでいけると思い、開催したので大丈夫だと思います。
これからの沖縄が楽しみです!!
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マイストーリー 第14話
そして、これからさらに飛躍を遂げようと思って迎えた1998年でしたが、前年の勢いがなぜかなくなり、自分の組織が思うように伸びずに夏まで伸び悩みました。
原因は今思えば自分の作業が限界に達していったのです。
ニュースキン社は初めは基礎化粧10品目ぐらいでスタートしたのですが、女性特有の新製品へ飛び付く習性から、新製品をどんどん投入していき、おまけにファンデーション、口紅などのうわものも販売していきました。
おまけに健康食品も最初は2品目だったのが、そのうちに20品目ぐらいになり全部飲んだら手のひらに乗らないぐらいの量になっていったのです。
私は化粧品を全種類をそろえ、新しい商品が出たら購入して使い方、違いなどを勉強していきました。
最後は化粧水だけで5種類ぐらいになっていました。
そして、私が得た知識をグループの方に伝えていったのですが、あるときからグループの方が私と同じ知識を詰め込めなくなっていったのです。
当たり前です・・・増えれば増えるほど時間がとられ、覚えていくのも大変になるのです。
そうすると、本来は新しい人に伝えることが仕事なのですが、その新規に行く暇より、既存のグループに資料や新製品の情報を伝えることで手一杯になり、私の目が行き届いているところまでしか伸びなくなっていったのです。
つまり、私の許容範囲を超えては伸びていかないので、組織の伸びが停滞していったのでした。
おまけに私の分身どころか面倒臭くなって辞めていく人も出ていきました。
伝えるのが面倒ということは楽しくないのです・・・
この仕事の一番の良さは楽しいことです。
でも、最後のほうの活動は毎日がつらかったのです。
従って、そう思ったらマーケティングプランの説明ができなくなっていきました。
なぜなら、仕事で伝えることに恐れが出てきたからです。
「こんな大変な仕事、させたくない~」と無意識に思い始めたのでした。
私は当時、本業でやっていたので、フルに時間が作れましたが、私のグループの方は私以外は生活できるだけの収入をニュースキンからは得ていなかったので、兼業だったのです。
その兼業ではあまりにも作業が多すぎたのでした。
私は悩みました・・・このままではまずい・・・そんな焦りのなかで1998年の後半を過ぎていきました。
頑張れば頑張るほど頭が破裂寸前になっていくのです。
あの人にはあの資料行ったかな・・・あの人にはセミナーの情報送ったかな・・・あのグループのミーティングをどうしよう・・・フォローどうしよう・・・・
しかも新規を出さなければ、グループの方は自分がお手本だから自分が新規を出さなければグループの方も新規を出さない・・・そんな焦りの中でただやみくもに頑張り続けました。
逃げ出したくなりました。
でも、逃げ出したら組織はあっという間に無くなってしまう~という不安がつきまとっていたので、そんなこともできずにもがき苦しんでいました。
そんな姿はダウンラインにもアップラインにも見せられませんでした。
第14話終わり つづく
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今日は最高の自分だった・・・今日は最高自分だった・・・
一日一善 すべての人の感謝! 自分の人生はハッピーエンド!
ツイてる、ツイてる、ツイてる!

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